2006年7月30日 (日)

夏の帝国2006年

 北国で生まれ育った子ども時代の僕にとって、もっとも待ち焦がれたのは夏の到来であった。春を待つ東北の人びとという定型化した抒情は、子どもたちにとって無縁であった。瞬間の夏の輝きは、子どもの僕にとって、夏の虫たちが光に向かって鱗粉をひるがえし求愛の舞踏をするように、僕らをわくわくさせた。

 夏の光は、眼に映る光景を一変させる。                            木立のあわいから刺し貫く光の束。一斉に太陽に向かう樹木の広葉を、ちりちりと焦がすように、天から太陽熱が降り注ぐ。                                モクモクと入道雲がたち昇り、海は真っ青な永遠として鏡のように僕らを夏の光のなかに包みこんでいく。そして、深い謎のような蛍の光、ジェット機のような銀やんまの滑空。                                               真っ白なシャツは、いつも陽炎のなかでダイヤのように輝いていた。

 言うまでもないが、北国の夏は短い。8月の中旬を過ぎると夏は終わる。海水浴場は閑散とした砂場となって、海の家に染みていた焼きトウモロコシの匂いは、強い潮の香りに消されてしまう。長い雨が、いつのまにか夏の化粧を洗い落としてくれる。

 だからなんだろう。夏が終わると、すぐ来年の夏を待ち焦がれる。そして、そうした夏を何度も過ごして、いつのまにか僕は、わたしに変わり、私の中の少年は、面影となって沈殿していった。

 そんな思いのなか、今年も学生諸君との高尾山登山の日が近づいてくる。いろんな記憶が錯綜し、さまざまな歩みが思い出される。そこで、今年も一片の詩編を書いた。

 道の記憶

熟れた北半球が ザクリと割れて                                 癖のある 夏草が 繁茂する夏                                   陽の光は 白いシャツを ぴかぴかに際だたせ                             汗で潤んだ瞳は 記憶の河を 遡及する

いったい どれだけの道を 歩いていたのだろうか

ひとりで 歩いた道もある                                       凍えるような夕陽が 地面を血のように紅く染めていた                         そこに細長く伸びた 孤独な影                                         目を伏せて わたしは その道を歩いた

気がつかないまま 大勢の人びとと 歩いた道もある                                   夏の暑い陽射しが 群集を蒸し上げていた                                      行けども行けども 逃げ水のように たどり着けない影                               徒労とおなじくらいのため息を漏らし わたしは その道を歩いた     

春 大陸からの黄砂で 視界が閉ざされた道                                         夏の哄笑と 冬の叫び                                                         秋 低気圧が人びとを包む 冷たい雨に濡れた道                                   さまざまな忍耐と希望が交差する道

いったい これから どのくらいの道を                                            歩くのだろうか                                                             夏は まだ終わらない                                                       道も まだ半ば                                                              過ぎ去った道は 薄れ逝く記憶なのか

そして 聞いてみたい                                                        君たちもまた どんな道を 歩こうとしているのか と                          

7月 30, 2006 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年8月30日 (木)

【エッセイ】子どものころの夢

 子どものころの夢を覚えているだろうか。少なくても、わたしはいまも覚えている。絵の好きだったわたしは、絵描きになるのが夢だった。子どものわたしは病弱で体力が乏しく、しょっしゅう風邪やいろんな病気で学校を休んだ。そんな日は、一日中、黙って寝ているしかしようがなかった。
 病気で寝ているわたしから見える光景。枕元から見るふだんは気づかない不思議な景色。なにか意味ありげに広がる天井の隙間やシミ。人の足に踏まれてツルツルになった畳の輝き。障子が開け放たれ、縁側の向こうに見える外の景色。縁側の向こうには小さな庭があって、いつも同じ時間に、きれいなきつね色をしたノラ猫が通りかかる。そして、蒲団に寝ているわたしと眼が合い、ジッとこっちを視ていたりする。庭には餌を啄みにくる小鳥たち。なかには雀に混じって、鮮やかな黒や緑色などの羽を輝かす名の知れない小鳥もやってくる。そして、風邪の熱と眠りとのあわいで朦朧とするなか、遠くから聞こえる優しげな人の声や蒸気機関車の音。夢かまぼろしか。浮かんでは消え、消えては浮かぶ色や音。
 そんな記憶をたどり、気分がよくなると、わたしは、親にねだって買ってもらったスケッチブックに絵を描いた。空想と現実がないまぜになった絵。蒸気機関車に乗るわたし。横にはいつものノラ猫。畳のように輝く平原をまっすぐに伸びるレール。空にはせわしなく飛び回る小鳥たち。そして機関車から吐き出される蒸気の煙。風邪で動けない蒲団のなかで、どんどん広がる想像と自由。
 それから、すでに四〇年。わたしは、もちろん絵描きになれるはずもなかった。絵描きになりたくて、家の近くの画塾に通わせて欲しいと親に願ったこともあった。でも、親はわたしの才能のなさを見抜いてか、あるいは絵描きなんぞ先の見通しのない仕事への忌避からか、わたしが画塾にいくことを許してはくれなかった。たしかに、わたしは絵描きになれなかった。でも不思議なことに、いまでも絵描きになる夢をもったことに後悔していない。そして、その夢をもったことを忘れたくはない。
 誰でも子どものころには、夢を持っていただろう。きみだってパイロットになりたかったこともあったろうし、あなたもケーキ屋さんになりたかったのかもしれない。でも、「現実」を前にして、その夢は、夢で終わってしまったのかもしれない。いまとなっては、子どもっぽいといって片づけているのかもしれない。
 では、いまのきみは、いまのあなたは、どんな夢をもっているのだろう? きみやあなたが思う「現実」を前にして、もう夢を見なくなった? いや、子どものころから、夢などもたなかった?
 若者は、いまある「現実」に怯える。つかみきれない「現実」、視ることのできない「未来」に不安を隠せない。きみやあなたは、そんななかで夢を忘れようとしていないだろうか。子どものころの夢を恥ずかしいと卑下していないだろうか。
 子どものころ見た夢には、打算や妥協、たくらみ、我欲はない。幼い心に宿った夢には、希望や楽しみ、わくわくするような期待があるだけなのだ。夢が夢である純粋さ。わたしたちは、年をとればとるほど、そういうものから遠ざかる。受験生にしても、志望校、偏差値、学部選択、なにもわからない「現実」を前に、いつも「有利」という条件づけで、自分の進路を決めなくてはならないところに置かれている。
 わたしが、絵描きになる夢をもったことを忘れたくない理由。それは、この「現実」のなかで、打算や欲望のない、「有利」さを狙わない、そんな精神を、どこかで宿しておきたいからなのだ。「現実」を前にして怯えるとき、わたしは、ふらりと子ども時代の夢にたちもどる。 

注)このエッセイは2001年8月に載せたものを再度寄稿しております。

8月 30, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年8月21日 (火)

【エッセイ】夏の参議院選挙~選挙って、なに?

 締め切りに追われ、この原稿を書いている今日は、なんたってこの国の21世紀最初の国政選挙、参議院選挙の日なのである。受験生の諸君の多くは、もちろん選挙権を持っていない? ウ~ン……たまに長く受験生をしている人には20歳の大台にのっちゃた人もいるかもしれないが、ともかく、今日は選挙の日なのである。
 ところで今回の選挙の争点は、ズバリ「改革」。バブル崩壊後の経済的低迷、慢性的財政赤字、官僚主導の土建行政・開発行政などを、いまこそ「改革」しようというのが、各政党・各立候補者の訴え。ライオンハートの小泉の純ちゃん総理も、声を嗄らして「改革」を訴えている。
 思えば、大阪の池田市でおこった小学生殺傷事件や最近やたらに増えてきた幼児虐待殺人事件、外務省のヤリタイ放題使い込み事件など、気の滅入る事件が多くおこっているが、そんな気分を一新し、カラっと明るく、いまの厚い雲のおおわれたような閉塞感を打ち破りたい、それが人々の「改革」への期待感を高めているんだろう。
 それにしても、投票率を上げる意図なのか、視聴率を上げる意図なのか、テレビ局の選挙報道は、ここ数年でメチャメチャ、ショーアップされてきたね。かっては、選挙報道といえばNHKが独壇場で、まじめなそうなアナウンサーが、重々しく正確に選挙結果を伝えるって感じだったんだけど、日テレもTBSもフジもテレ朝も、芸能人を呼んだり、半ばタレント化した政治評論家や政治学者を呼んでのお祭り騒ぎ。しかも、テレビの画面では「当確」「当選」の感動シーンの大写し。まるでスポーツ観戦と同じ感じで「選挙観戦」(?)って状態。っていうか、なんか選挙が軽くなった。
 それに、政党のCMも、すごくなってきた。ベルトをぐーっと締めたり、さむいオヤジギャクあり、党首が張りぼてみたいなロボットに突っ込んだり、コスプレ風な白衣姿で現れたり、いったい誰に向かってコマーシャルしているんだろう。あのCMにどんな政治的メッセージがあるのかな……。なんか選挙が漫画っぽい。
 数年前、若者の投票率の低さに、若者の政治への無関心が問題視されたことがあったけど、その後、若者は選挙に行くようになったのだろうか。君たちにも聞きたいけど、君らは20歳になったら、投票しに行く?
 若者の感覚と「政治」のズレ。いつかドイツに行ったとき、ドイツの選挙戦の最中だったが、選挙カーはなかったし、名前の連呼も聞かなかった。町のそこここには支持者が集会を開き、そこで激しく議論をしている人々はいたが、おおむね町は静かだった。そしていうまでもなくドイツの投票率は高い。
 暑い夏の盛り、都心の盛り場で拡声器の音量いっぱいに候補者は声を張り上げ、喧噪は渦巻きのようにこだまする。テレビは、お祭り騒ぎで、一喜一憂を伝える。「痛みのともなう改革」。今年の流行語大賞って感じのこの言葉は、なにを示しているのか。考えると、選挙はすごく重要なんだ。でも、なんか違う感じだなぁ……。君たちは、この選挙の形をどう思う。さてさて、小言を言っても仕方がない。とりあえず、今日は選挙に行くしかないでしょう・・・。

注)このエッセイは2001年8月に載せたものを再度寄稿しております。

8月 21, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年8月14日 (火)

【エッセイ】八月雑感…戦いの夏…

 八月。街には強い陽射しのなか、すべてのものから解放されたような若者で満ちている。夏休み。男の子も女の子も、夏は特別な季節なのだ。この夏にこそ運命が変わる。危険な出会い。めまいするようなアドヴェンチャー。そして、ひと夏のチャンス。
 渋谷や原宿には、金髪にブリーチして、目のまわりが真っ黒になるくらいの入念なアイシャドー、濡れて色鮮やかなルージュを引き、金色のラメを輝かし、思いっきり素肌を露出した女の子が、あたかも戦いに臨む戦士のようにテンションを高めて闊歩している。街は女の子のさながら戦場のようだ。
 だが、毎年八月といえば、六日広島に原爆投下。九日長崎原爆投下。そして一五日の敗戦。ザラザラとした雑音に包まれた昭和天皇の玉音放送。「……朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ 非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セシムト欲シ……堪エ難キヲ堪エ忍ビ難キヲ忍ビ・・・」。この時期になると、年中行事のように、いつもマスコミを通じて、独特な抑揚のついた昭和天皇の声を耳にする。
 日本人にとっての八月。同時に、かって日本軍の支配下にあったアジアの人々にとっての八月。空襲に逃げまどい、父を夫を兄を弟を、遠い異国の戦場で失った人々。戦場で餓死した無数の戦士たち。一億玉砕を叫び敵艦に体当たりをした若者。そして戦場とされ、家を焼かれ、肉親を殺され、なけなしの財産を失った人々。強制連行された中国人の悲しい眼差し。従軍慰安婦とされた女の子の絶望。八月に呼び起こされる記憶。
 もちろん先の大戦などは、日本史入試の必須事項のひとつって感じの受験生にとって、八月は受験の「天王山」。つまりは、受験と激闘を演じている真っ最中。でも、蝉時雨のなか、雑音だらけの昭和天皇の声を聞くと、歴史のなかの古い記憶がよみがえってくるような不思議な気持ちにならないだろうか。
 そして、夏は高校野球。地区大会一回戦コールド負け。相手との戦いに負けたのではない。自分との戦いに負けたという現実に気づく。なにが悲しいのかわからないが、とまらない涙。勝ちあがった者たちは激闘甲子園! なみいる強豪のなか、一球に青春を燃やす。剛速球。鋭く切れてくる変化球。チャンスに火を噴くバット。ファインプレー。甲子園の暑い戦場で、若者は、ひたむきにひたむきに白球を追い、白球に生命を吹き込む。
 八月。それは戦いの季節。過去の戦いに静かに眼を閉じ、記憶を呼び覚ます季節。激しい照り返しのなか、輝く太陽に身を焦がすようにして、それぞれの戦いの場を求める季節。
 いずれ夏は終わる。戦い終わった高校球児たちは、強烈な記憶とともに、バットを置き、白球を静かにしまい込む。夏祭りの夜。終電で無邪気に眠りこけている女の子。長い夏期講習を終え、ふと暮れかかっている空を見上げる受験生。君は来年の夏をいまから密かに期している。さまざまな戦いの夏が過ぎる。だが、その戦いは君たちにとって、なによりも心の糧になるはずだ。いま君の過ごした八月は、明日の君の記憶となって、君をきっと支えてくれるにちがいない。 

注)このエッセイは2001年8月に載せたものを再度寄稿しております。

8月 14, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年8月 7日 (火)

【エッセイ】ギ~ラギラ、太陽が~

 お隣の朝鮮半島では、大洪水だっていうのに、日本列島は、知らないあいだに梅雨明けしていて、猛暑の〝夏〟がやってきた。ちなみにここ数日の東京の気温は、三十七、八度はあった。その間、ボクは、エアコンのない家にお引っ越し……。汗みどろになって、ふぅふぅ言いながら、この三日間で、どれだけの水分を採ったのだろうか。みんな汗になっちまって流れだし、汗腺はまさに全開状況。
 よ~く考えてみれば、これが人生で二十一回目の引っ越し。子供のころは転勤族だった父の仕事の関係で七回ほど。上京して大学生になって四回、その後なんだかんだと十回を数える。
 ところで引っ越しの回数といったら葛飾北斎に敵(かな)う者はいないだろう。 宝暦十(1760)年生まれの北斎は、嘉永二(1849)年に亡くなるまでの九十年近くの人生において、なんと九十三回も引っ越しした。まぁ、この人の場合は、とんでもないくらいに旺盛なバイタリティの持ち主で、描いた絵のジャンルは、風景画、花鳥画、人物画、歴史画、戯画となんでもかんでもで、しかも中国の南画から銅版画まで、とにかく取り入れられる画法は全部試し、おまけに、北斎、画狂人、可候、卍、不染居為一などなど、その号も三十回も変えている。
 いまは、「変革の人」で「変人」と呼ばれているんだとか、どこぞの総理大臣が超人気を博しているが、北斎は、同じ処にじっとしていられないほど、溢れんばかりの情熱、創作意欲にギラギラに燃えて いた。いつも「ここより他の場所」を求めて、自分を「変革」し、新鮮な境地、新世界を求めてやまなかったのだと思う。
 さてさて、この猛暑のなか、若者はすこぶる元気のようだ。子供のころ、なんたって楽しみだったのは夏休み。大学生になると 、長い夏休みがやってくる。暑い夏、この時期、若者はなにかをしたいと痛烈に思う。受験生だって、この夏、いままでの自分とは比べられないくらい伸びてやろうって時期なのだ。
 若者にとって、「変革」の時は、暑い夏の時期だ。猛暑のなかで、君の「自己変革」にむけてのバイタリティが燃えだす。それにギ~ラギ~ラと太陽が 、「ここより他の場所」を求めて、君のエネルギーを過熱させる。   

注)このエッセイは2001年8月に載せたものを再度寄稿しております。

8月 7, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年7月 3日 (火)

【エッセイ】夏は受験の天王山だ!

 「夏は受験の天王山だ!」という言葉は、昔からあった。少なくともボクが受験したころ、う~ん……いまから三〇年以上も前のことだけど、確かにあった。で、そのころのボクが夏に勉強したかっていうと……。
 高校三年のとき、田舎にすんでいたボクは、花の都東京に行きたくて、予備校の夏期講習を受けたいと、気まぐれに親にねだった。そしたら、親は、なにを思ったのか、七月に入っていきなり、予備校に行っていいぞ、と言いだした。親の家計を考えると、とんでもない贅沢だったが、そんなわけで、ボクは東京に出てきた。
 で、勉強はどうだったかというと、もとより勉強より、東京に親しみたかったボクは、予備校の冷房が思いの外、冷たいことを口実に、三日で予備校の授業からエスケープしてしまった。それに正直言って、予備校の授業は、なんか役に立つように思えなかった。当時、ボクの通った予備校はコース制で、授業は五日づつ二〇日間あった。それを三日でエスケープ。まったくもって、いまでも親に申し訳がない。
 じゃあ、何をしていたのかっていえば、親の知人の家に泊めてもらっていたボクは、朝、予備校に行くフリをして、家を出なくちゃならない。家を出て、まずは図書館へ行って、午前中は田舎では手に入らない雑誌や本を読む。で、午後は、たいてい映画を見に行く。東京では、安い映画館がいっぱいあることは、田舎で研究ずみだった。おこづかいも、そのために貯めていた。そしてそれ以外は、東大や慶應、早稲田などの大学めぐり、立教や法政、明治もいったし、当時、柴田翔の小説『されどわれらが日々』が流行っていて、その影響からか、ヒロインの母校、東京女子大もいった。かなりミーハー。
 勉強はそっちのけで、映画を見て、大学のキャンパスで、来年は、ここに来るぞなんて大それたことを考え、すっかり大学生気取りで、大学のベンチで、サルトルだのカフカ、あるいは大江健三郎や小林秀雄、おまけに歴史学の本など、とにかく難しげな本ばかりを読んだりして、なんて「青春!」してたんだろう。
 「夏は受験の天王山だ!」。確かに、この時期集中して勉強すれば、秋口から実力はつく。日本史・世界史でいえば、予備校の夏期講習を受け、この時期にしゃにむに「近現代史」をマスターして、一通り、全時代の動きをつかんでおくことは大切である。あるは、事件や人名は少なくとも、この時期の覚えておきたい。英語や数学も、問題量をこなすには、この時期をおいてほかにはないのかもしれない。
 そんな時期、ボクは、予備校をサボって、好きな本や映画に浸りきっていた。でも、いま考えれば、こんなに集中して本だの映画などを観た時期はなかった。花の都東京で、想像できないくらい自由な時間を過ごした。
 さてさて、翌年の受験である。夏に遊びすぎた結果、その後の模試は散々たるものだった。 一〇月ぐらいから、モーレツに焦った。夏の遅れを取り戻さねば。受験の結果は、とーぜん……と思いきや、なんとか花の都東京の三田にある大学にすべり込んだ。もしかして、夏の遊びすぎが、受験への集中力を生んだかも……。やはり、夏は受験の天王山なのである。

注)このエッセイは2001年7月に載せたものを再度寄稿しております。

7月 3, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年6月12日 (火)

【エッセイ】六月雑感

 ボクの好きなジャズ奏者にソニー・ロリンズってプレーヤーがいたんだけど、カレはお天気のなかで一番「曇り空」が好きだと言っていた。……だってこれから雨が降るかもしれないという緊張感(テンション)がたまらないじゃないか。
 それはそうと、もう六月も半ば過ぎ去って、梅雨空のうっとうしい毎日が続き、大学生も受験生も、なんかやる気をそがれて、四月の張り切っていた緊張感がすぅーっと抜けた感じになっているのでは……? どっか遠い国の小説家が書いていたけど、「ひとは一日に何度、こんなはずじゃなかったとつぶやくのだろう。悔恨のつみかさね、それだけが、あなたの体重を日々重くしていく」
 子供のころから思っていたけど、六月は中途半端な月だ。きらめく太陽のなか、すべてが解放されたような夏の前に、無機質に横たわる一ヶ月という時間。春のようなときめきもないし、この時期はたいしたイヴェントも組まれることがない。「ジューンブライト」のシーズンだけど、この時期は長い休暇を取れるわけでもないし、なんか我慢してなきゃといった感じの動きの少ない月。停滞する感じ。思わず「こんなはずじゃなかった」とつぶやきたい月 。
 正岡子規の『墨汁一滴』は、六月に入ると、やたら彼の受験時代の話しが出てくる。大学予備門(現在の東大教養学部って位置にある)に通るために、子規は共立学校という予備校に通った。英語は、のちに首相にまでなり、ダルマ宰相と親しまれ、その後、二二六事件で暗殺された高橋是清から習っている。子規は、幾何の出来も悪かったが英語はもっと出来なかったらしい。試験中、単語の意味が分からず、隣の生徒にひそかに聞いたところ、「ほーかん」と言われたので、「幇間」と解答したというのだからスゴイ。前後の文脈から考えれば、試験に「幇間」は出てこないだろう。 実際は「法官」だった。子規は、『墨汁一滴』の六月の日記に、「学校で歴史の試験に年月日を問ふやうな問題が出る。こんな事は必要があればだんだん覚えて行く。学校時代に無理に覚えさせようとするのは愚かな事だ」と苦々しげに書いている。子規はこの六月の梅雨の時期のなかでけっこう憂鬱だったにちがいない。「余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験で困しめられる夢だ」。
 さて、みなさんの六月は、どんな時間になっているだろうか。六月は、梅雨空のもとで花菖蒲の美しい月でもある。そうして、雨上がりの蒸し蒸した池の畔には、蓮の花がばっくりと花弁を裂いて咲き出す。むしろ雨の中で、六月は悪くない月でもあるはずだ。そして、六月の憂鬱な「曇り空」を、むしろ緊張感(テンション)に満ちたスリリングな感覚でとらえるのも、決して悪くはない。

注)このエッセイは2001年6月に載せたものを再度寄稿しております。

6月 12, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年6月 5日 (火)

【エッセイ】ワイドショーを見る

 なにを隠そう、わたしはテレヴィのワイドショーが大好きである。最近のワイドショーの一番の注目は、「ライオンハート小泉純一郎」で、やれ「田中カクエイ真紀子」女史やら「オトボケ塩爺」などキャスティングの妙もあって、ヤンヤヤンヤの騒がしさである。噂によると、「小泉内閣メールマガジン」はパンク寸前の盛況とか。この旺文社メールマガジンもがんばらねば……。でも、面白さ馬鹿馬鹿しさのゴッタ煮みたいなワイドショーだが、いまの経済状況や教科書問題・憲法問題など、ふと正気になって眺めてみると、笑っている場合じゃないのかもって気もする。
 しかも、最近のワイドショーでは気になる事件が多い。先日東京の西武線で、若者が「もっと詰めてもらえませんか」と言ったことで同年代の若者に駅で暴行を受け死亡した事件や、そのまえに東京三軒茶屋で、電車のなかの口論が原因で、四人の若者によってたかって殴られ死亡したサラリーマンの事件など、とにかくささいなことで巨大な暴力や悪意が発生する事件が多い。
 ワイドショーのコメンテーターの御高説では、それは現代社会のコミュニケーション不足が原因、あるいは現代日本人は肉食中心の食事をするようになった結果、尿酸値(?)が高くなり、キレやすくなった。いや、それはカルシュウム不足だ……。とにかくさまざま、「百家争鳴」。
  肉がどうとかカルシュウムがどうとかは知らないけど、とりあえずは、みんなストレスがたまっているらしく、最近、駅のホームや車中で口論をよく見かける。すぐにムキになるし、すぐに「コノヤロウ」って感じ。率直に言って、もっと「言葉」を使えないのかと思うんだけど、若者に限らず最近話し下手が多くなった感じがする。自分の興味のあることになるとしゃべり散らすんだけど、相手に正確に自分の意志を伝えようとなると、なんかぎこちない。ケータイでの話し言葉も怒っているように聞こえるし、なんか早口。
  そんなとき思い出したのが、昔見たアメリカ映画のワンシーンである。暗闇せまるなか、まったくの赤の他人であるふたりの男が、ヒッチハイクの車を求めて、砂漠の広がる荒涼たる路上に取り残されていた。ヒッチハイカーであるふたりの男は、我先にと、ほとんど通ることのない車を求めて、お互いライバル意識をむき出しにしていた。気まずい雰囲気。一雨きそうな緊張した厚い雲。夜の闇はどんどんせまってくる。そんなとき、なんかの拍子で、片方の男がタバコを取り出しもう片方に勧めた。相手の男は驚きながら、それでもずうっと二人きりで取り残された連帯感からか、素直にタバコをうけとった。おずおずと男がタバコを口に運ぼうとした瞬間、片方の男がマッチを擦って相手のタバコに火をつける。その刹那、二人の顔がタバコの赤い炎に照らされ、優しい笑みがふたりの男の顔に浮かび上がった。二人の男から緊張感は失せ、赤い炎のなかに親密な空気が満ちる。 タバコ一つ、タバコの火一つのことだけ。思うに、言葉がなくても相手に「心」を贈りさえすれば、コミュニケーションはとれる。そう言えば、なんかあって凹んでいるとき、友だちが無言で「飲む?」って顔して渡してくれた缶コーラ。そのとき、ホッと救われた気がしたって、そんな経験のある人多いんじゃない。まずは、相手に対し「ムキ」にならずに「スキ」になろう。
 そんなこんなでワイドショーを見ながら、実は考えることって結構あるものなんですネ。

注)このエッセイは2001年6月に載せたものを再度寄稿しております。

6月 5, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年5月 8日 (火)

【エッセイ】風薫る五月って……

 風薫る季節、晴れわたった青空が、颯々(さつさつ)とした風を、わたしたちの胸の奥底まで届けてくれる。気持ちがよくってしかたがない。でもその反面、このころは「五月病」って言葉があるように、晴れわたった青空の片隅に自分自身の孤独が影を落としているような、そんな季節でもある。
 この時期、大学ではチヤホヤされた「新歓コンパ」も終わり、期待したより数段つまらない講義が日常的に続き、面白そうだと思って入ったサークルも居場所がない感じがして、おまけに友達も思ったようにはできない。バイトも割のいいのはないし、アレアレッてうちに落ち込んで、ぼーっと、「こんなのが五月病?」って自分自身に思わず聞いてみたりする。 そういえば、去年の今ごろは、浪人の屈辱をはらすべく、必死になって予備校の授業についていったよなぁ……。かーっと燃えていたよなぁ……。日本史のヤガシワどうしてるかなぁ……。
 風薫る五月。「センセイ! 飲みに連れてってくださいよぉー」。そんな大学生がやってくる季節。「オー、元気でやってるかぁ」「大学どうだぁ」なんて応えるわたし。でも、知ってるのさ。君が五月の憂鬱に悩んでるのを。「そっかぁ、じゃ、今日行くかぁ……」
 ところで、わたしは幸か不幸か 浪人せずにすんだ。東北は秋田出身のわたしにとって東京は、まさに「花の都」。都会のスピードについていけなかった。思わず、高校時代の友人に電話をする。今度、メシでも食わねぇーか。「なに言っているんだ。大学生はイイよな」。そうか彼は浪人したんだ。別の友人にTel。でも、その友人は、「悪いんだけど、オレ、サークル忙しんだ」。結局一人。
 わたしの入った大学は、私鉄の駅を降りると、大学の記念館に向かって銀杏並木が立ちならび、右手に折れると広い陸上競技場がある。天気のいい五月。孤独に傷つき講義をさぼったわたしは、だれもいない運動場の芝生で一人ひなたぼっこ。ふと気づくと間抜けな顔をした野良犬が一匹、わたしの隣でひなたぼっこ。可哀想に、誰かがいたずらしたんだろう。犬の顔には、マジックで眉毛が書かれ、目の周りは丸く黒く塗られ、胴体には大学キャンパスの地名にちなんで「日吉丸」と書かれていた。キョトンとわたしの顔を見つめる「日吉丸」。笑うしかない。なんだ、おまえも孤独かい。しょーもねぇーなぁ。野良犬「日吉丸」はすこし臭った。でも、その臭いは、なんかホッとした懐かしい臭いだったなぁ……。

注)このエッセイは2001年5月に載せたものを再度寄稿しております。

5月 8, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年5月 1日 (火)

【エッセイ】Dちゃんの声

 予備校の講師を十年以上も続けていると、いろんな若者と出会う。やたら自信満々なヤツ。調子よく「そーっすよねぇ」と連発するヤツ。あるいは、どーすればいいかって頭を抱えるヤツ。彼らにはさまざまな事情があり、さまざまな癖がある。
 そのなかにDちゃんという浪人生がいた。本名を知るものはほとんどいなかったが 、Dちゃんといえば知らないものがいないくらい予備校では有名だった。Dちゃんはとにかく日本史大好き受験生だった。山川の用語集はすべてそらんじていて、さらに角川の日本史事典の律令官制表から藤原氏や徳川氏などのすべての系図の細部まで暗記していた。授業になると、三百人くらいの大教室で教卓に最も近い机に陣取り、ボクの話しを一言漏らさずメモし、疑問があれば間髪入れずに質問する。まさにDちゃんの座席の部分だけが「濃い」空間となっていた。
 Dちゃんは吃音で声も甲高かった。「セ・センセェー、ちっ・ちがいまぁす」の声が、受験生が寡黙にノートを取っている教室にこだまする。また来たっ……。満鉄の線路幅をごまかすと、「満鉄の軌間は四フィート八インチ半ですぅ」。そんなの受験には出ナイって……。川中島の戦いでは武田信玄の弟が戦死した。「セ・センセー、そ・そっ・それは武田信繁ですぅ」。それは答えなくてもイイって……。Dちゃんは、その有り余る知識を おさえられない。すべてがこの調子だった。
 こんなDちゃんを、一部の浪人生は露骨に嫌い、多くは馬鹿にし、ボクは授業の調子が狂うことにとまどった。Dちゃんは、それに薄々気づいていた。いつか、ボクのところに質問に来たとき、Dちゃんは、日本史は好きなんだけど、アメリカに行きたいと言っていた。でも、こっそり事務の人に頼んでDちゃんの成績をみせてもらうと、日本史はどの模試でもほぼ満点だったが、英語や国語の偏差値は四〇前後しかない。日本には日本史だけで入れる大学などはない。
 受験の結果、Dちゃんはすべての大学に落ちたという。でも、風の便りだと、その後Dちゃんはアメリカに行ったらしい。英語は大丈夫……? 日本史オタクだったDちゃんが、日本を去りアメリカに行く。日本では、まず周りとあわせることが求められる。Dちゃんは、おそらく合わせられない自分にひどく傷ついていたのだろう。
 いまも授業中、ふとDちゃんの「セ・センセェー」という声がどこからか聞こえてくることがある。あれっ、やばい! なにか間違ったかな……。

注)このエッセイは2001年5月に載せたものを再度寄稿しております。

5月 1, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年4月10日 (火)

【エッセイ】君たちの眼差し

アジアの一隅にミャンマーという国がある。軍事政権に対し、アウンサン・スー・チー女史が民主化を要求して長い戦いをしている国である。
 数年前、私は、この国の仏教遺跡パガンを訪れた。過酷に照りつける太陽。悠然と時間が流れ、イラワジ川の岸辺に赤茶けた大地が拡がる。そこに廃墟となった仏塔(パゴダ)が無数に散在する。パガンは、13世紀蒙古軍の侵入により滅ぼされた。偶像崇拝を嫌う蒙古は、パゴダの中の仏像を痛々しくも破壊した。
 ふと、一人の青年が、流暢な英語でガイドをすると近づいてきた。私は、法外な金銭を請求されまいかとこの青年を警戒した。青年は、それにかまうことなく、私と歩調を合わせパゴダの説明をはじめた。
 「まいったな」と思ったが、ふとこの青年の英語にアジア訛りがないのに気づいた。君の英語の発音はきれいだけど、カレッジにでも行っているのかと聞いてみた。彼はこう答えた。
 私の家は貧しく、カレッジどころかハイスクールだって行けなかった。子供の頃から、この痩せた土地で農業をしているが、どうしても勉強したい。そこで、ラジオから流れるBBC(英国放送協会)を聞いて、耳だけを頼りに英語をマスターした。パガンは観光地で外国人が訪れる。そこで、こんなふうにガイドをして英語力を研いてきた。将来は、通訳をしたいが、まだ英文を理解できない。ガイドの収入で食いつないで勉強しているという。
 ミャンマーの国民一人あたりの年収は平均 で200ドルほど。アジアでも極貧国に入る。陳腐な物言いだが、かの青年の眼差しは輝きに満ちていた。貧困の中でこそ最も激しく未来の形が求められる。日本の若者は「自分のやりたいことが見つからない」と口にする。豊かさに慣れた言葉だ。日本の君たち若者の眼差しは、いま輝いているか。携帯にしがみついている若者の姿が、むなしく見える。

注)このエッセイは2001年4月に載せたものを再度寄稿しております。

4月 10, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)

2001年4月 1日 (日)

【エッセイ】変身願望について

 人には変身したいという願望がある。それはなにも姿や形での変身にとどまらない。君たちが、弁護士や医者、あるいは作家になりたいなどと思う希望も、現在の自分ではない、何ものかになってみたいという変身願望なのだ。
 ある精神科医の話だが、人間の変身願望には、大きく分けて三つのパターンがあるという。一つは、特権的な力を求める権力志向型、次に憧れる対象に近づきたいという模倣型、三つ目には、現在の自分や周りの環境から脱出したいという逃避型。
 しかし、ここで考えなければならないことがある。たとえば「大学で何をしたいのか」と受験生に質問すると、多くの受験生は、大学に入学しさえすれば、いままでの自分と大きく変わった自分がそこにあるという単純な想像をしている場合が多い。大学に入れば、たくさん友人ができ、英語のほかもう一カ国くらいの言葉ができるようになり、法学部に入れば、司法試験なんかも通過できるくらいの学力がつき、また教養も高まるにちがいないとふんでいる感じなのだ。
 でも、残念ながら、そんなに事態は甘くない。結局、友人はむこうから近づいてくるものではなく、君自身が魅力的であったり、あるいは君の積極的な働きかけがなければ関係は成立しない。語学も司法試験も、大学という環境で解決されることではなく、あくまでも君自身にかかっているのである。
 変身は、誰でも憧れる強い願望である。しかし、変身とは、ある日突然、劇的に訪れるものではない。儚い夢で終わらない君自身の変身は、現在の君自身のあり方そのものによって導き出される結果という形で表現されるものなのだ。

注)このエッセイは2001年4月に載せたものを再度寄稿しております。

4月 1, 2001 4. エッセイ | | コメント (0) | トラックバック (0)